1945年の終戦から1年後、「山手舞踏場」としてその歴史をスタートさせたクリフサイド。開業から70年、数々の有名JAZZ奏者やミュージシャンたちがこのステージから巣立っていきました。昭和の社交場らしい雰囲気をそのままに、今もダンスイベントやJAZZコンサートなどを開催し多くのファンから愛され続けています。そんな古き良き時代の面影を残す横浜最古のダンスホール・クリフサイドを、JAZZシンガーのキャロル山崎さんが訪ねました。
横浜元町・山手の代官坂を登っていくと、右手に少しずつ姿を現すのが、横浜に唯一残るダンスホール、クリフサイド。その雰囲気ある佇まいで、周囲の光景とは一線を画す独特な存在感を放っています。入口の扉を開けると目の前に広がるのは、まるで昭和にタイムスリップしたかのような趣ある空間。壁や天井、ソファに装飾品、そして館内に漂う独特の香り…クリフサイドを構成するひとつひとつが味わい深く、その歴史を物語っているようです。
クリフサイドがオープンしたのは、終戦の翌年、昭和21年8月。山手の「崖(クリフ)」の「傍(サイド)」にあることからその名がつけられました。米兵を対象にしたクラブばかりだった当時、日本人が生バンドで踊れる高級ダンスホールとして注目の的に。最初期は一部の富裕層しか入れない憧れのお店でした。店内では飲食が提供され、従業員の女性ダンサーがお客さんのダンスの相手をしたそうです。最盛期には200人近い女性ダンサーが在籍していたのだとか。横浜だけでなく東京からもたくさんのお客さんがつめかけ、坂には行列ができることもありました。リムジンで駆けつける銀幕スターや有名スポーツ選手、また作家や国会議員などもお忍びで遊びにきていたそうです。
伝説のJAZZトランペッター・南里文雄氏がしばしばステージに立っていたことでも知られており、いまも使われている2階奥の小宴会場「トランペット・ルーム」は、彼にちなんだものです。他にも多くの有名ミュージシャンたちがクリフサイドで育ち、巣立っていきました。
在日米軍の施設が多かった当時の横浜は、アメリカ文化の発信地であり、ジャズ文化が根付いていました。大人はもちろん、新しい文化に敏感な若者たちは、ナイトクラブで夜な夜な踊り、ジャズを楽しんだのです。 1950年代~60年代にかけて、ブルースカイやナイトアンドデイと並び横浜を代表するナイトクラブとして名を馳せたクリフサイドは、いわば戦後日本の社交界の走りであり、新時代の象徴ともいえる存在だったのではないでしょうか。
100平方メートルの広々としたダンスフロアに、2階席が見渡せる開放的な吹き抜け。趣のある装飾品に、どこかムーディーな照明…クリフサイドは、外観も内装も当時の姿のまま、変わらずに生き続けています。一方でナイトクラブとしての実態は1990年代頃に終わっており、いまはダンスパーティーやJAZZコンサートの開催、イベントホール的な営業を中心に運営されています。テレビ撮影や映画、音楽PVのロケでも多く使われており、最近では、いきものがかり『ありがとう』のPVでも舞台になったそう。当時のままの姿を残しつつも、いまの時代に合った使い方で愛され続けているのです。
戦後の横浜の歩みを、社交の場としてずっと見届けてきた歴史情緒あるクリフサイド。横浜にはアメリカ文化を肌で受け止め、発信してきた独自の歴史がありますが、その歴史を古い資料や映像ではなく自分の肌で感じることができる、貴重な場所なのではないでしょうか。当時の横浜を知る世代が懐かしみ、楽しむ場所としてはもちろん、クリフサイドはこれからの横浜文化が生まれる場所としても大きな可能性を秘めています。若い世代の人たちが、当時の横浜に思いを馳せながらその歴史に触れる場所。そして、これからの新しい横浜文化を築き、発信していくような場所になることを強く願います。
キャロル山崎さんが訪れたこの日、1階のメインホールでは「カウント・セイノーオーケストラ」のライブが開催されていました。「カウント・セイノーオーケストラ(通称CSO)」は、横浜に本拠地をおく社会人JAZZビッグバンド。昭和33年に産声をあげ、40年からJAZZ中心のバンドとして活躍しています。クリフサイドのステージでも何度も演奏しており、この日も会場は満席!!総勢20名ほどのメンバーによるダイナミックなビックバンドJAZZに、会場は一体となって盛り上がりました。
大人の世界に酔いしれる極上のムード、そしてグルーヴ感。クリフサイドでしか味わえない独特のライブの魅力に圧倒される夢のようなひとときでした。
クリフサイド オーナー 野坂哲也氏
クリフサイドが出来た当時、終戦直後で日本人が遊べる場所はほとんどありませんでした。横浜市内にいくつかクラブはありましたが、日本人はオフリミットで入れなかったのです。そんな中で、シルク繊維の貿易会社を経営していた私の父が「日本人にも踊れる場を」という思いでオープンさせたのがクリフサイドでした。日本人のためのダンスホールとして、外国人は米兵以外の民間人だけが入れるようにしたのです。
オープン当初、クリフサイドはかなり高級なダンスホールとして知られていました。入場料も高く「一生懸命働いてクリフサイドに遊びに行く!」というのが合言葉になっていたようです。当時はホールのステージ上にチェンジバンドも用意し、上は5~6人、下はビッグバンドという体制でずっと音楽を奏で続けていました。その音楽に乗せて、お客さまがダンスを楽しんだのです。昭和37年に父が亡くなってからは三兄弟の末っ子である私が後を継ぎました。30年ほど前になるでしょうか。オープンから数えるともう70年になるのですが、今もこうして変わらずお客さまに愛されていることが本当に幸せです。